2010.06.18
食農クラスター交流会が豊橋サイエンスコアでありました
50社の展示があり食品、農業、農協、豊橋技術科学大学、豊橋市、 豊橋商工会議所、有限会社セールスレップ・プロデュース株式会社 コム・バリュー他
第九回中国国際曰用消費品博覧会出展の様子
6月8日(火)から、11日(土)までの4日間、寧波国際展覧センター(展示総面積は9万平米、標準ブースが4000個)において開催されました。
今回の展示会では現地大学生・寧波大学(日本語の話せる学生)、寧波工程学院・日本語学科生徒がボランティアで、日本企業の各ブースに2・3名つき、コピーやファックス送り、中には通訳が出来る学生もおりました。
中国の18・19歳の学生のしっかりした対応や日本に行きビジネスや文化を吸収したいという熱意を感じ、日本の学生との違いを強く感じました。
尚、彼らは4年生になると日本に留学する生徒が多く、留学後も日本に滞在したいが、ビザの問題などもある事から、わたくし達のビザ取得や入国手続きサービスについて色々な質問を受け、彼ら・彼女たちの真剣な眼差から強い意志を感じたくらいでした。
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東三河の財産 三河港
成長への道を歩き出す
□三河港が重要港湾に昇格し、第1次の港湾計画が策定されたのは、1964(昭和39)年のことだった。
1964年といえば、東海道新幹線が開業し、東京オリンピックが開かれた年である。
消費者物価が、高騰し、公害という経済成長の負の遺産が表面化しようとする暗雲があったものの、日本経済は高度成長への助走を始めた時であった。
三河港も後背地・東三河地域の工業整備特別地域指定をバネに成長への道を歩き出した。
自動車港湾の曲がり角
□貴重な財産」としての三河港を持つ東三河地域は、「成長のポテンシャル(潜在能力)
を秘めた地域」として期待され、岸壁などの港湾施設整備や大型船舶の入港を可能にする渥美半島沖の中山水道航路の開削が進められた。こうした投資で三河港は「全国一」の自動車の輸出・輸入港に成長した。
しかし、昨年から深刻さを増した世界金融危機、米国の消費低迷による対米自動車輸出は急減。「自動車港湾・三河港」は曲がり角に差し掛かっている。
日本経済は、過去「重厚長大」から「軽薄短小」に変容してきたが、その経緯と同じように三河港も今、輸出頼みだった日本経済の弱点を踏まえての「変化」がせまられているといえよう。
目指すべき姿
□鳥になって三河港を上空から見下ろしてみると、目をとめるものがある。風力発電
の風車群だ。地球温暖化の防止、生物多様性の維持、石油漬けの経済構造からの脱却が求められているわれら地球家族の答えの1つがここにみられるのではないだろうか。
三河港の公害防止は全国に先駆けた厳しい基準だった。港湾整備に力を入れた故青木茂豊橋市長は、かって胸を張って強調していたものだ。
三河港では、現在、地球環境の保全、を重視した企業展開に対応して、輸送技術の研究開発や自動車リサイクル、流通時の環境負荷を低減するための共同流通への対応をはかる自動車コンプレックス計画がすすめられようとしている。(三河港振興会「三河港活用ガイドブック」から)この計画は地球環境に目を注ぎながら、「次の変化」をめざす模索の1つといえよう。もちろん、自動車コンプレックスの計画全体もさらなる検討、世界経済の変化を受けた不断の見直しは必要だ。
1つの言葉が思い浮かぶ。「グリーン・インダストリアル・ポート」。これが三河港が今後目指すべき姿ではないだろうか。
公害防止の厳しい基準の中で、発展した歴史を持つ三河港。地球環境に配慮する自動車コンプレックス計画。歴史と将来計画は合致させなければならない。
地域住民の理解と協力
□新しい時代を切り開こうとする時に欠かせないのは、地域住民の理解と協力だ。
三河港にとって、東三河はもちろん、盟友地域である浜松・湖西や南信地域の理解と協力も忘れてはなるまい。
半世紀近い年輪を重ねた三河港。その歴史を文化・伝統として、東三河の財産・三河港を「グリーンな港」に変貌(へんぼう)させていきたい。それにむけた努力がわれわれに果たされた責務(課せられた責務?)だと思う。
2009・7・18東愛知新聞(取締役編集局長・本多亮)
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